2015年03月27日

ペンシルロケットと糸川英夫 (1)

今年2015年は、日本で最初の宇宙を目指すロケットが発射されてから60年目に当たります。そのロケットの名は「ペンシル」。そこで、そのペンシルロケットの誕生の経緯を振り返ってみましょう。

1 糸川英夫 ─ 少年時代

ペンシルの誕生を語るのに、「糸川英夫」という名前は欠かせません。初めに、この類い稀な人について述べておきましょう。

日本の「ロケットの父」糸川英夫は1912年(明治45年)7月20日、東京の西麻布で生まれました。4歳の時に、アメリカのアート・スミスというパイロットが、東京の青山練兵場(現在の代々木公園)で飛行機に乗って、宙返りなどびっくりするような操縦をやって見せた時、お父さんに肩車をしてもらってそれを観ていた英夫少年の心に火がつきました。「絶対にパイロットになる。なって自由に空を飛びたい」という大空への強い憧れが芽生えたのは、この時でした。幼い感動は生涯の創造の母となりました。 

1.jpg
ペンシルロケットを持つ糸川英夫


当時の麻布・六本木界隈には自然が色濃く残っており、その絶好の遊び場で英夫少年は虫や木の葉と存分に戯れました。5歳の時には、ガス灯に代わって糸川家に登場した電球に驚き、「将来はエジソンのようになりたい」と思ったそうです。小学校の時には凸レンズ、磁石の不思議の虜にもなりました。ベイゴマを兄と一緒に工夫しながら製作しました。好きになったら何でものめり込んでいく少年でした。

英夫が中学生だった1927年、アメリカのチャールズ・リンドバーグ(1902-1974)という若者が、あの広い大西洋を、ニューヨークからパリまで、途中で着陸することなく、33時間29分30秒かけて、たった一人でひとっ飛びしました。『翼よ、あれがパリの灯だ!』という映画は有名です。リンドバーグは一挙に世界の英雄となりました。これを中学生の英夫は「畜生!なぜこの素晴らしい快挙を、日本人がやれなかったのか」と悔しがったといいます。そしてさらに「そうだ!まだ太平洋が残っている」と思ったそうです。失意も逆境も明日への旺盛なエネルギーに転換する ─ 糸川英夫の生涯の特長が既に現れています。

2.jpg
チャールズ・リンドバーグと愛機「スピリット・オブ・セントルイス」


こうして自由奔放に育って行った糸川英夫は、東京市立第一中学を卒業して東京高校に進みました。高校に入学して何ヵ月か経ったころ、何気なく入った音楽部室で、チェロを見つけました。そばに演奏者用の椅子があるのを見て、英夫は思いました──これは座って弾ける楽器なんだ。それに(小学生の頃に習わされていた)バイオリンのように首に挟まなくてもいいし、あんな苦しい思いをしなくてもいい。これは楽だな……
これが英夫が終生つきあうことになったチェロとの、運命の出会いでした。そしてチェロにのめり込んだ果てに、英夫は音楽部の委員長を務め、一日中音楽づけになりながら、英夫は中学時代の延長でバスケットボール部にも属し、1年から3年になるまでつづけていました。水泳部にも入っており、ここでは背泳を専門にやっていました。だから、土曜日になるとほんとうに嬉しかったらしいですよ。土曜日の午後になると、月曜日までスケジュールが何もない。嬉しい嬉しい束の間の一日半でした。
posted by 事務局スタッフ at 21:43| ペンシルロケットと糸川英夫