2015年03月27日

ペンシルロケットと糸川英夫 (3)

3 日本の宇宙ロケット研究の始まり

脳波の研究が契機となって、糸川英夫がアメリカに降り立ったのは、1953年12月でした。シカゴ大学の図書館で資料を探している彼の眼に「スペース・メディスン(宇宙医学)」という本の背文字が目に飛び込んできました。それは人間が宇宙に行った場合の人体への影響について分析したものでした。糸川は思いました─どうやら、アメリカはロケットをつくって宇宙へ打ち上げるだけでなく、人間をロケットで宇宙へ送り出すらしい。
それ以来、頭からロケットのことが離れなくなりました。飛行機設計者として腕をふるっていた時の楽しさが蘇ります。「ロケットをこの手で作ろう」、こう決心すると、予定を繰り上げて翌年5月に帰国、東京大学の生産技術研究所を舞台に精力的に動き始めました。ロケットは飛行機の専門家だけでなく、幅広い分野の専門家が必要です。航空工学、ジェット研究者、電子工学、土木工学など多くの分野の研究者に声をかけました。

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『スペースメディシン』


「ジェットエンジンを積んだ航空機を今更作ってももう遅い。超音速、超高速で飛べる飛翔体を作り、太平洋を20分で横断しよう」と、「ロケット旅客機」構想を提唱したのです。時代をはるかに越えた糸川の構想は、アメリカの後追いを余儀なくされていた若手の研究者の心を捉えたのでした。1954年2月、東大の生産技術研究所にロケットの研究班AVSA(Avionics and Supersonic Aerodynamics)が誕生、宇宙をめざす日本のロケット研究が本格的にスタートしました。

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科学は作る(毎日新聞1955.1.3)


ロケットを作るメーカーが必要です。いろいろ努力しましたが、当時の日本ではロケットと言っても、その意義について理解する人も少なく、やっと以前糸川が所属していた中島飛行機の後身である富士精密という会社が協力を申し出てくれました。

ロケットの研究に必要な燃料を探したところ、愛知県の武豊の日本油脂の工場にいた村田勉が、朝鮮戦争で使われていたバズーカ砲の燃料を提供してくれました。まるでマカロニのような小さな燃料です。当時、糸川研究室が千葉にあり、富士精密の工場は東京の荻窪にありました。このマカロニみたいな形の燃料を使って、千葉と荻窪で繰り返し基礎的な実験を続けました。目的とする「太平洋横断」を考えると、あまりにスケールが小さい感じではありましたが......

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千葉の糸川研究室で(左が糸川英夫、1955年)
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ペンシルロケットと糸川英夫 (4)

4 ペンシルロケットの誕生

乏しい予算しかなかった東京大学と富士精密のロケットチームでしたが、手に入ったマカロニのような燃料をもとにして、多くの小型ロケットが試作され、その中から生まれたのが、直径1.8 cm、長さ23 cm、重さ200グラムのペンシルロケットです。

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ペンシル・ロケット


ペンシルロケット用のマカロニみたいな形と大きさの燃料は、「ダブルベース」(無煙火薬)と呼ばれるもので、ニトログリセリンとニトロセルロースを主成分とし、それに安定剤や硬化剤を適当に混入し、かきまぜこねまわして餅のようにしたものを圧伸機にかけて押し出す方式のものです。

ノーズ・コーンや尾翼の形状も決められました。尾翼は、矩形、三角翼等々を試した後、クリップトデルタ形が選ばれました。次いで空力中心(飛んでいる時に空気の力が働く中心)を測定し、ロケット重心と空力中心の距離を変化させて飛翔の安定性を調べました。重心を変える方法としては、ノーズコーン(突端部)の金属をアルミ、銅、鉄と3種類の材料を使いました。また、尾翼の取り付け角を変えて、機体をスピンさせたときの軌道を計測することにしました。

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ペンシルロケットを分解するとこんな部品からできている


1955年(昭和30年)2月末、糸川英夫は、国分寺駅前の新中央工業KK廃工場跡地の銃器試射用ピットを訪れました。JRを国分寺駅で下車し、北口の階段を降りて右に折れ、線路ぞいに新宿方向へしばらく行くと、早実学園の敷地があります。ここが、かつての新中央工業の敷地。その校庭の現在テニスコートになっている位置が、ペンシルロケットの最初のテストを行った場所なのです。

いくつかのコンクリートの建屋を見て回り、そのうちの一つに糸川が目をつけました。高速度カメラの電源を探し、幸い三相200ボルトの電源が見つかったのですが、使えるかどうか分かりません。再度調査することにして工場を後にしました、その試射場予定地の周囲に草の青い芽が顔を覗かせていました。

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見つかったペンシルロケット発射の候補地


このピットをロケット発射用に改造し、何回かのテスト発射をやり、次いで4月12日、関係官庁・報道関係者立ち会いのもとで、公開試射が実施されました。
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ペンシルロケットと糸川英夫 (5)

5 国分寺のペンシル水平発射 ─ 日本の宇宙開発の幕開け

当時成熟したレーダーの技術がない中で、他の人々が「まずはレーダーを作る方が先決ではないか」と主張する中で、「水平に発射してでもロケットの飛び方を一刻も早く調べたい」という糸川英夫の強い欲求に沿って、チームが知恵を寄せ合って作り上げた苦心の装置が工夫されました。

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国分寺におけるペンシルの実験装置


面白いのは、この時の糸川です。水平発射実験をリードした彼は、「総指揮」と書いた腕章を腕に巻き、発射の時は「日本最初のコントロールセンター」と呼んだ装置の前に座っていました。裸電球がいくつかあります。ランチャー班、ロケット班、オッシログラフ班、……それぞれの班の準備が完了すると一つずつ電球が点灯され、すべてが整ったら一番端のひときわ大きな電球が灯されました。

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国分寺の糸川の秒読み


糸川のカウントダウンが厳かに始まります。「5、4、3、2、1、ゼロ!」この瞬間、開閉器(スイッチ)が急いで降ろされて、発射! 長さ約1.5 mのランチャーから水平に発射され、細い針金を貼った紙のスクリーンを次々と貫通して向こう側の砂場に突きささりました。

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ペンシルロケットの水平発射(高速度カメラ)


ペンシルが導線を切る時間差を電磁オッシログラフで計測しロケットの速度変化を知る。スクリーンを貫いた尾翼の方向からスピンを計る。こんな小さなロケットをいくつも飛ばして、高速度カメラの助けも借りて、速度・加速度、ロケットの重心や尾翼の形状による飛翔経路のずれなど、本格的な飛翔実験のための基本データを得たのでした。

半地下の壕での水平発射とはいえ、コンクリート塀の向こう側は満員の中央線です。塀の上に腰掛けている班員が、電車が近づくとストップをかけ、秒読みが中断されるのでした。微笑ましい雰囲気ですね。

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半地下壕での実験だった


直径1.8 cm、長さ23 cmのペンシルロケットの小さな機体には、その後の私たち日本人が抱く宇宙への憧れが凝縮してつまっていました。私自身はそのころ中学生でした。新聞に乗っているペンシルロケットの記事を読んだときの、周囲の大人のほのぼのとした希望に満ちた雰囲気を懐かしく思い出します。
posted by 事務局スタッフ at 21:40| ペンシルロケットと糸川英夫