2015年06月24日

ペンシルロケット発射60周年記念イベント

2015年4月12日(日)、ペンシルロケット発射実験から60周年を迎えました。これを記念して、宇宙開発発祥の地である国分寺市とJAXA宇宙科学研究所等の共催、NPO法人「子ども・宇宙・未来の会」(KU-MA)等の協力、文部科学省、内閣府宇宙戦略室の後援により、「水平発射水ロケット大会」、「記念講演会」、「企画展」が開催されました。


水平発射水ロケット大会

4月11日(土)、国分寺市立第七小学校で前代未聞の「水平発射水ロケット大会」を開催しました。この大会では、60年前のペンシルロケットの水平発射に倣い、水平に近い角度で打ち上げた水ロケットの飛距離を競いました。ふつう水ロケットを水平に近い低い角度で打ち上げることは危険なので行いませんが、今回はペンシルロケット発射実験60周年の記念イベントとして特別に実現しました。

当日はあいにくの雨模様にもかかわらず、午前の部、午後の部ともに大勢の親子連れが参加され満員御礼となりました。はじめに、井澤邦夫市長および橋本正之副市長のご挨拶がありました。続いて、国立天文台の阪本成一教授によるペンシルロケットやさまざまなロケットのお話を聞きました。子どもたちは身近なお菓子が燃料のキャンディロケットの打ち上げ映像に大喜びでした。

参加者の気分が盛り上がったところで、工作開始です。子どもも大人も工作を教える先生も熱心に取り組みました。水平発射で打ち上げるため、ふつうの水ロケットの機体より軽量化している分、作るのがちょっとむずかしかったにもかかわらず、参加者全員見事に完成させました。さぁ、いよいよ打ち上げです。

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機体のペットボトルに水を入れノズルを取り付けたらランチャーにセットし、ポンピングで空気を入れ、打ち上げ管制官のカウントダウンでいっせいに打ち上げます。「発射5秒前、4、3、2、1、発射!」歓声とともに、色とりどりの水ロケットが水しぶきをあげて勢いよく飛んでいきました。優勝者の記録は、午前の部58.85m、午後の部59.05m。ペンシルロケットを彷彿とさせる創意工夫を称え、優勝者には賞状とトロフィーが授与されました。

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ペンシルロケットを通して、新しいことに挑戦すること、創意工夫することの大切さや楽しさを子どもたちに感じ取ってもらえればうれしい限りです。


記念講演会

4月12日(日)、早稲田実業学校で「ペンシルロケット発射60周年記念講演会」が開催されました。会場となった小室哲也記念ホールには大勢の方が来場され、ペンシルロケットの還暦を祝いました。

講演会では寺門和夫さんが総合司会を務め、井澤邦夫市長のご挨拶から始まり、松本洋平内閣府大臣政務官をはじめ、来賓より祝辞をいただきました。
「歴史の証言者からのメッセージ」では、1955年の発射実験に尽力された方々によるペンシルロケットや糸川英夫先生の当時のエピソードなどを、司会にJAXAの的川泰宣名誉教授、寺門和夫さん、パネリストにJAXAの秋葉鐐二郎名誉教授、垣見恒男さん、山本芳孝さんを迎え、たっぷりと伺うことができました。

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「発射60周年記念セレモニー」はホールから正門前に場所を移し、「日本の宇宙開発発祥の地」顕彰碑の横で行われました。ペンシルロケットの打ち上げカウントダウンを模して白熱電球が次々に点灯。60年前の発射時刻と同じ3時5分、点火玉着火。点火装置のスイッチが押されるとポンッという音とともに拍手が湧きました。そのあと、4月12日生まれの方や松本零士さんのお話を聞きました。

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記念講演「イプシロンロケットの挑戦」では、JAXA宇宙科学研究所の森田泰弘教授によるイプシロンロケトの開発や打ち上げに加え、子ども時代のお話など、盛りだくさんな内容となりました。

振り返ってみると、学術目的ではじまった日本の宇宙開発をペンシルロケットは象徴しているように思えます。10年後の70周年記念も同じ思いでお祝いできることを願っています。


企画展

4月11日(土)〜19日(日)、本多公民館ホール(東京都国分寺市)にて、企画展「ペンシルロケット60年目の待ち合わせin国分寺」が開催されました。当時を知る方には1958年(昭和33年)の国分寺駅前の画像や当時の航空写真等で懐かしんでいただき、将来を背負う世代にはスタンプラリーなどで楽しんでいただけるよう工夫をいたしました。また、共催のJAXA宇宙科学研究所の協力により、小惑星探査機「はやぶさ」帰還カプセルとイトカワ微粒子の初の同時展示が実現しました。

目玉であるペンシルロケットの実機は、17機と過去最大規模の集合となりました。実際に発射実験に使用された機体と確認されているものや野口聡一宇宙飛行士がSTS-114ミッションで国際宇宙ステーション(ISS)に持ち込んだ機体、2段式や燃焼室を3つ束ねたクラスター式など大変貴重な機体もありました。今回目を引いたのは、現在の所有者により還暦の赤いちゃんちゃんこを着せられた機体で、大事にされていることを感じる逸品でした。こちらは、新聞等でも多く取り上げられたので、ご覧になった方も多いかと思います。

次の記念イベントは、古希(70歳)のお祝いとなりますでしょうか。ペンシルロケットは後世に受け継いでいくべき宇宙開発の貴重な遺産です。

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ペンシルロケットレプリカふるさと納税

ペンシルロケット発射60周年を記念して、国分寺市とJAXA宇宙科学研究所の共催事業として、10万円以上のご寄附をいただいた方へのふるさと納税の返礼品として、当時の実機を復元したペンシルロケットを差し上げることになりました。1,000個限定でなくなり次第終了となります。くわしくは、国分寺市ウェブサイトをご確認ください。

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・国分寺市ウェブサイト
 http://www.city.kokubunji.tokyo.jp/shisei/zaisei/1008580/index.html

日本宇宙フォーラム 広報・調査事業部
京田綾子
「企画展」執筆 松元留美子
posted by 事務局スタッフ at 11:26| UNIVERSEニュース

ペンシルロケットと糸川英夫 (1)

今年2015年は、日本で最初の宇宙を目指すロケットが発射されてから60年目に当たります。そのロケットの名は「ペンシル」。そこで、そのペンシルロケットの誕生の経緯を振り返ってみましょう。

1 糸川英夫 ─ 少年時代

ペンシルの誕生を語るのに、「糸川英夫」という名前は欠かせません。初めに、この類い稀な人について述べておきましょう。

日本の「ロケットの父」糸川英夫は1912年(明治45年)7月20日、東京の西麻布で生まれました。4歳の時に、アメリカのアート・スミスというパイロットが、東京の青山練兵場(現在の代々木公園)で飛行機に乗って、宙返りなどびっくりするような操縦をやって見せた時、お父さんに肩車をしてもらってそれを観ていた英夫少年の心に火がつきました。「絶対にパイロットになる。なって自由に空を飛びたい」という大空への強い憧れが芽生えたのは、この時でした。幼い感動は生涯の創造の母となりました。 

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ペンシルロケットを持つ糸川英夫


当時の麻布・六本木界隈には自然が色濃く残っており、その絶好の遊び場で英夫少年は虫や木の葉と存分に戯れました。5歳の時には、ガス灯に代わって糸川家に登場した電球に驚き、「将来はエジソンのようになりたい」と思ったそうです。小学校の時には凸レンズ、磁石の不思議の虜にもなりました。ベイゴマを兄と一緒に工夫しながら製作しました。好きになったら何でものめり込んでいく少年でした。

英夫が中学生だった1927年、アメリカのチャールズ・リンドバーグ(1902-1974)という若者が、あの広い大西洋を、ニューヨークからパリまで、途中で着陸することなく、33時間29分30秒かけて、たった一人でひとっ飛びしました。『翼よ、あれがパリの灯だ!』という映画は有名です。リンドバーグは一挙に世界の英雄となりました。これを中学生の英夫は「畜生!なぜこの素晴らしい快挙を、日本人がやれなかったのか」と悔しがったといいます。そしてさらに「そうだ!まだ太平洋が残っている」と思ったそうです。失意も逆境も明日への旺盛なエネルギーに転換する ─ 糸川英夫の生涯の特長が既に現れています。

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チャールズ・リンドバーグと愛機「スピリット・オブ・セントルイス」


こうして自由奔放に育って行った糸川英夫は、東京市立第一中学を卒業して東京高校に進みました。高校に入学して何ヵ月か経ったころ、何気なく入った音楽部室で、チェロを見つけました。そばに演奏者用の椅子があるのを見て、英夫は思いました──これは座って弾ける楽器なんだ。それに(小学生の頃に習わされていた)バイオリンのように首に挟まなくてもいいし、あんな苦しい思いをしなくてもいい。これは楽だな……
これが英夫が終生つきあうことになったチェロとの、運命の出会いでした。そしてチェロにのめり込んだ果てに、英夫は音楽部の委員長を務め、一日中音楽づけになりながら、英夫は中学時代の延長でバスケットボール部にも属し、1年から3年になるまでつづけていました。水泳部にも入っており、ここでは背泳を専門にやっていました。だから、土曜日になるとほんとうに嬉しかったらしいですよ。土曜日の午後になると、月曜日までスケジュールが何もない。嬉しい嬉しい束の間の一日半でした。
posted by 事務局スタッフ at 21:43| ペンシルロケットと糸川英夫