2015年03月27日

ペンシルロケットと糸川英夫 (2)

2 糸川英夫 ─ 青春時代

そして東京帝国大学に入学。もちろん、飛行機をやろうと思っていた糸川に逡巡はありませんでした。まっすぐに工学部航空学科へ。航空学科の時代、野球やボートを楽しむのも忙しかったのですが、プロの飛行機屋になるために、数学、力学、物理学等々、頭が痛くなるほど勉強にいそしみました。
英夫は、大学卒業後、中島飛行機に入社しました。時に1935年、日本では満州事変、五・一五事件、国際連盟脱退と軍靴の音が大きくなっていった時期であり、航空機の世界は、複葉機から単葉機へ移り変わる時代になっていました。

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群馬県太田市にあった日本最大の軍用機生産メーカー「中島飛行機」の本工場


英夫のお父さんは、薩摩琵琶を得意とするほど日本の伝統文化を大切にする人でしたが、大正デモクラシーの影響を色濃く受け、これからは国際化の時代であることを意識し、西欧の文化についても深く学んで、英夫を時代の雰囲気いっぱいに育んだようです。

東京帝国大学を卒業した糸川英夫は、1935年4月、中島飛行機に入社。当時の日本は、1903年のライト兄弟の飛行で燃え上がった航空のパイオニアたちが、大空をめざして格闘している時代でした。糸川という有能な若者を隊列に加え、中島飛行機の技術陣は、やがて1937年4月、「九七式」という、単座の軽戦闘機としては世界最高傑作と称された航空機を開発しました。

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糸川英夫がデビューした九七式戦闘機


1937年7月に盧溝橋事件という事件を皮切りに日中戦争が開始されると、糸川のように航空機に情熱を燃やす若者は、戦争で使われる航空機(戦闘機)を設計する他はなくなりました。「九七式」の成功によって、糸川英夫の名は一躍天才的設計屋として認められるようになり、次いで糸川英夫は、1941年に「隼(はやぶさ)」、1942年に「鍾馗(しょうき)」などを完成させました。

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一式戦闘機「隼」


しかし、日本は太平洋戦争の敗戦によって、飛行機の研究を禁止されました。戦争のさ中に、国の方針によって東京帝国大学で研究を始めていた糸川ですが、幼いころから大好きだった飛行機の研究ができなくなって悩みました。一時は自殺も考えたそうです。

戦時中の無理がたたって病気がちになり東大病院に通っていた糸川は、そこでの医師との会話がきっかけとなって、脳波の診断器の開発を頼まれました。その研究に着手した糸川の頭には、大好きな音楽がありました。脳波とチェロやバイオリンに共通しているのは、「振動」です。音響学という研究部門が、新たな魅力を持って糸川の脳裏に忽然と出現しました。東京帝大は東京大学と名が変わっていました。こうして東京大学の音響工学の教授になった糸川は、ペンレコーダー式の脳波測定器を日本で初めて作った人となりました。

やがて麻酔による眠りの深さを数値で表す麻酔深度計の開発に取り組むことになり、その業績が認められて1953年、招かれてアメリカに渡り、しばらくの間シカゴ大学で講義をすることになりました。そこに、糸川と日本の将来に重大なかかわりを持つ出会いが待っていたのです。
posted by 事務局スタッフ at 21:42| ペンシルロケットと糸川英夫

ペンシルロケットと糸川英夫 (3)

3 日本の宇宙ロケット研究の始まり

脳波の研究が契機となって、糸川英夫がアメリカに降り立ったのは、1953年12月でした。シカゴ大学の図書館で資料を探している彼の眼に「スペース・メディスン(宇宙医学)」という本の背文字が目に飛び込んできました。それは人間が宇宙に行った場合の人体への影響について分析したものでした。糸川は思いました─どうやら、アメリカはロケットをつくって宇宙へ打ち上げるだけでなく、人間をロケットで宇宙へ送り出すらしい。
それ以来、頭からロケットのことが離れなくなりました。飛行機設計者として腕をふるっていた時の楽しさが蘇ります。「ロケットをこの手で作ろう」、こう決心すると、予定を繰り上げて翌年5月に帰国、東京大学の生産技術研究所を舞台に精力的に動き始めました。ロケットは飛行機の専門家だけでなく、幅広い分野の専門家が必要です。航空工学、ジェット研究者、電子工学、土木工学など多くの分野の研究者に声をかけました。

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『スペースメディシン』


「ジェットエンジンを積んだ航空機を今更作ってももう遅い。超音速、超高速で飛べる飛翔体を作り、太平洋を20分で横断しよう」と、「ロケット旅客機」構想を提唱したのです。時代をはるかに越えた糸川の構想は、アメリカの後追いを余儀なくされていた若手の研究者の心を捉えたのでした。1954年2月、東大の生産技術研究所にロケットの研究班AVSA(Avionics and Supersonic Aerodynamics)が誕生、宇宙をめざす日本のロケット研究が本格的にスタートしました。

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科学は作る(毎日新聞1955.1.3)


ロケットを作るメーカーが必要です。いろいろ努力しましたが、当時の日本ではロケットと言っても、その意義について理解する人も少なく、やっと以前糸川が所属していた中島飛行機の後身である富士精密という会社が協力を申し出てくれました。

ロケットの研究に必要な燃料を探したところ、愛知県の武豊の日本油脂の工場にいた村田勉が、朝鮮戦争で使われていたバズーカ砲の燃料を提供してくれました。まるでマカロニのような小さな燃料です。当時、糸川研究室が千葉にあり、富士精密の工場は東京の荻窪にありました。このマカロニみたいな形の燃料を使って、千葉と荻窪で繰り返し基礎的な実験を続けました。目的とする「太平洋横断」を考えると、あまりにスケールが小さい感じではありましたが......

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千葉の糸川研究室で(左が糸川英夫、1955年)
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ペンシルロケットと糸川英夫 (4)

4 ペンシルロケットの誕生

乏しい予算しかなかった東京大学と富士精密のロケットチームでしたが、手に入ったマカロニのような燃料をもとにして、多くの小型ロケットが試作され、その中から生まれたのが、直径1.8 cm、長さ23 cm、重さ200グラムのペンシルロケットです。

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ペンシル・ロケット


ペンシルロケット用のマカロニみたいな形と大きさの燃料は、「ダブルベース」(無煙火薬)と呼ばれるもので、ニトログリセリンとニトロセルロースを主成分とし、それに安定剤や硬化剤を適当に混入し、かきまぜこねまわして餅のようにしたものを圧伸機にかけて押し出す方式のものです。

ノーズ・コーンや尾翼の形状も決められました。尾翼は、矩形、三角翼等々を試した後、クリップトデルタ形が選ばれました。次いで空力中心(飛んでいる時に空気の力が働く中心)を測定し、ロケット重心と空力中心の距離を変化させて飛翔の安定性を調べました。重心を変える方法としては、ノーズコーン(突端部)の金属をアルミ、銅、鉄と3種類の材料を使いました。また、尾翼の取り付け角を変えて、機体をスピンさせたときの軌道を計測することにしました。

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ペンシルロケットを分解するとこんな部品からできている


1955年(昭和30年)2月末、糸川英夫は、国分寺駅前の新中央工業KK廃工場跡地の銃器試射用ピットを訪れました。JRを国分寺駅で下車し、北口の階段を降りて右に折れ、線路ぞいに新宿方向へしばらく行くと、早実学園の敷地があります。ここが、かつての新中央工業の敷地。その校庭の現在テニスコートになっている位置が、ペンシルロケットの最初のテストを行った場所なのです。

いくつかのコンクリートの建屋を見て回り、そのうちの一つに糸川が目をつけました。高速度カメラの電源を探し、幸い三相200ボルトの電源が見つかったのですが、使えるかどうか分かりません。再度調査することにして工場を後にしました、その試射場予定地の周囲に草の青い芽が顔を覗かせていました。

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見つかったペンシルロケット発射の候補地


このピットをロケット発射用に改造し、何回かのテスト発射をやり、次いで4月12日、関係官庁・報道関係者立ち会いのもとで、公開試射が実施されました。
posted by 事務局スタッフ at 21:41| ペンシルロケットと糸川英夫